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るろうに憂心 浪人譚

世の中を、人生を流浪して思ったこと・考えたことなどの雑記帳。結構本当に流浪人しているどこにも所属していない者です。

私的名曲ベスト3

誰もが自分だけの名曲、favorite songと言うものはあるだろう。昔ならお気に入り曲をまとめたカセットテープ、今ならデジタルでお気に入りファイルなどを作って リピートして聞いている人も多いのではないか。

とんねるず/迷惑でしょうが

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H Jungle with t / WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント

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ビートたけし/浅草キッド

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僕の中でこの三曲は僕史上トップ10に間違いなく入る名曲だ。邦楽洋楽合わせてもトップ10に入ると思う。何がいいってやはり心に染み入るんである。愛だの恋だの青春だのを歌ってる歌はもうお腹いっぱいで10代で聴くのをやめた。今の年齢でそういったことをお題目にした曲を聴かされてもまあ心に響くことは到底不可能だ。もうそんな年代をとうに過ぎているし「これあの曲の使い回しだよなあ」と過去にそんなことを歌ってるアーティストは腐るほどおり、今更目新しさはないんである。幸か不幸かネットでいくらでも昔の曲が聴けるようになってしまった今、「新しい」曲を作ることはかなり至難のワザであると思う。

で、お笑い芸人が歌う歌というのは歌唱力やリズムやメロディーなどといったことを度外視して聴くことができるということに気づいた。(まあ上にあげた三曲は全て大成功している芸人であるためちょっと違うだろうという異論は受け付ける)

結局メロディーだ、リズムテンポだといっても歌詞と歌っている人間に惹かれる。心に染み入るかどうかである。飾った歌よりも泥臭い人生模様を歌っている歌に僕は惹かれるんである。

多面体

よく「あの人には表裏がある」などという言葉を耳にする人は多いと思う。一般的にこの後に続く言葉は「だから嫌い」と言うものであることが多い。しかしその考えはあまりに短絡的で幼稚であると僕は考える。

 

僕が思うに人は生れてきたときには球面体である。一面だけだ。生まれた時はしばらく一面だけの自分を見せることができる。しかし、親と兄弟姉妹に対して見せる面は異なり、友達が出来るとまた違う面が現れる。先生や先輩、後輩、恋人、上司、立場や境遇の違う人と接するたびに球面体は多面体へと変化していく。

 

だから僕は「どうした。らしくないね」と言われることを本気で嫌う。親であってもこの発言は気に入らないと思ってしまうので他人に言われると「お前に俺の何がわかるというのだ」という気持ちになってしまう。人のことを理解できる、できたと思った時点で傲慢である。その人を見ている面はあなたに見せている一面でしかない可能性が高い。すべての面を見せているわけがないのである。そして面はどんどん成長とともに増えていく。人を理解できる、できたなどどいうことは心理学者であってもあり得ない話である。そもそも心理学は統計学であり、心を理解できる学問などと言う心理学者はまぁバカか詐欺師であると僕は考える。心のことを定性的に理解するのであれば生理学や脳神経について学ぶべきである。占いを完全否定はしないがそのほとんどは僕はバーナム効果か統計によるまやかしであると思っている。

 

だから人と必要以上に仲良くなることが僕は不安で仕方がない。他人の考え、行動に期待してしまうことは事実上他者の人格を放棄していると言える。

どういうことか?

あまりにも身勝手な期待は寄せるべきではないのだ。結局期待しているのは結果の部分だ。その人自身に対してではない。そしてその結果を元に他者を評価する。ビジネスでの関係ならそれで良いだろう。しかしプライベートな「友人」という存在にそれを当てはめてしまったらそれはあなたの傲慢でしかない。勝手に期待をして勝手に失望して友人を「評価」するなど愚の骨頂だ。他者にも人格、性格、生活があるのだ。そこを考慮せずに己の勝手な期待を押し付けることは利己的であるという発想にはならないのだろうか?

「あいつ裏切った」

「あんなことするやつだとは思わなかった」

全てあなたの勝手な期待だ。その他者はそういう面も持っていたというだけに過ぎない。

 

だから以前もSNSの是非について書いたが、あれは完全に一面のみしか見せない虚像を作り上げる過ぎた長物であり、人間の本質を分かってないリア充アピールだけをしたい人間が使うには分不相応なのである。

モテたいという心理

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金なし

職なし

彼女なし

三重苦を背負った三十路男である。モテキなど映画のように都合よく来るはずが無い。そもそも森山未來がモテない草食系男子という設定に怒りを覚える。ふざけるな、である。

昨年末話題になったドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で完全にブレイクした星野源に関しても同様だ。35歳、童貞、プロ独身?星野源が?非イケメン?マジでふざけるな、である。

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これには世の本当にモテない非イケメンは暴動を起こしていいと思うのだが。

 

しかしかっこつけでもなんでもなく、正直なところ異性にもてたいという心理には僕は首をかしげる。10代くらいまではまぁわからなくもない。しかし20も過ぎてそのような気持ちが旺盛な人は色魔のように思ってしまう。

人気商売や客商売の人にとってはある程度人に好かれる要素がないといけないとは思う。しかしプライベートでまで万人に好かれるということは怪しい宗教と変わらないのである。

 

万人に好かれることはありえないことである。誰からも評判のいい人と言うのは可能性としていないとは言えないが天文学的な確率で存在しないと言える。万人から求められたナチスドイツのヒトラーは果たして素晴らしい人間であったと言えるのか?おかしいことをおかしいと言えない空気、風潮は恐怖政治でしかない。未だにNH◯であれば信頼できるなどと言う考えを持っている人間は大本営発表を鵜呑みにしていた時代から何も進歩していないと言える。

 

閑話休題。

 

結局モテたからなんだという話だ。一夫多妻制ならモテるということに価値があるのかもしれないがほとんどの国は一夫一婦制をとっている。結局のところ一人に絞らなければならないのだ。

 

恋愛原理主義のような風潮には大いに疑問を抱かざるを得ない。別に批判をしたい訳ではない。まあ悪いものでは無いのだろうという感覚はあるが大衆の言うそれは結局御都合主義なのだ。人が人に恋することは素晴らしいなどと言いながらそこには「純愛でなければならない」という条件がつく。失楽園がブームになった時代があった一方、現代ではゲス不倫などという言葉で喝破されている。

分かるんだけどね。分かるけど定義が主観と時代の潮流で変わるようなことに真理があるとは思えない自分がいる。あまりにもお手軽にドラマや漫画に題材にされ過ぎているがゆえに真理とは遠いものとなっている。

人の人生の多様性が失われている点が最近は如実だ。何かあるとネットで相談し、知恵袋やグーグル先生に聞いてそれが正しいやり方だと言う短絡的な思考で自分の頭で良い悪いの区別もせずにネットで得た意見を基盤に人から得た知恵で生きている。

学問や知識を得ることには有用だが(もちろん出典を確認することは必須だが)ネットに生き方を聞くことは愚かでしか無い。

お手軽に得た情報は結局その程度の価値しかない。

 

あれ、タイトルとだいぶズレた話になってしまった。まあそんなこともあるよね。

 

 

運命の喉仏を締め上げる

今ある現実が果たして本当の現実であるのか、と言った疑問を誰しも一度は持ったことがあるだろう。何も僕は形而上学的なことをお題目にして御高説を垂れようなどと言うつもりではない。

 

世の中に絶対はないと言うが、生物がこの世に生まれた時点で確実に決められたことがある。死ぬことだ。遅かれ早かれ人は皆死ぬ。これはどうやっても回避できない。iPS細胞などの利用で不老不死も不可能ではないなどとまことしやかに喧伝されてはいるがそれは無理だろう。科学的に可能であることと現実的に可能であることは同義ではない。クローン人間が倫理的に禁忌であると同様で不老不死はあってはならない。ある種の生命体が己の欲望のみのために不老不死をかなえるなどと言うことは生態系をこれまで以上に崩壊させ、ひいては地球のホメオスタシスを破壊し、せっかく手に入れた恒久の命も地球と言う生命体なしには生きられないのである。

 

死ぬからできないことと死ぬからこそできるということもある。必ず死ぬとわかっているのだから人間は人生のどこかで本気になる期間がある。それが若いうちなのか年老いてなのかは個人差であろう。若さは時として人を妄想の世界へ誘い、重大なミステイクに気づくことなく甘い世界に浸らせる。全能感を抱くことは勝手であるが、誰もがジョンフォンノイマンやアインシュタイン、ウサインボルト、マイケルジャクソンのように己の能力をいかんなく発揮できるわけではない。若いからまだ大丈夫だ、若いから何とかなる、こういった妄想が物事を先送りにさせる。若さは最大の武器であると同時に危うい全能感に包まれた自己成長をするうえで人生におけるかなりの律速期間になっていると僕は思う。

 

40,50になって気づいても別にかまわないが、その時人はこう思う「あと十年若かったら・・・」しかし残念ながら時間はどうやっても返ってこない。人は死への道を蛇行することなくただひたすらに邁進する。

 

来世はどうのこうのという人がよくいるが来世はない。霊能者や占い師なる人物がそのような類の話をよくしているが僕はそれは信じることができない。正直なところ詐欺師であるとすら思う。天国や地獄の話をする人間も同様だ。それらは誰も経験していないことだ。つまり想像、空想で語っている。「私には見えるんです!」という人はもう病気としか言えない。よく地震などの大きな震災があるとあとになってから「あの○○地震を予知していた!」などという触れ込みでメディアに露出する自称霊能者や予知能力者の多さをみてもまだ気づかないのだろうか?とすら思う。

 

来世や前世が本当にあったとしよう。その時にあなたは今の記憶、前世の記憶を持っていると言えるのか?前世に武士だか文豪だったかは知らないがそんな記憶はないのだからその人と自分が同一人物であると言うには無理がある。「へー」くらいで済ます話だ。生まれ変わりがあるというのなら今後亡くなった人間のDNAは逐一残しておき、生まれ変わりと言う人物とDNA鑑定をしてもらいたい。

 

だから今やるべきなのだ。

 

「昔はすごかったんだぜ?」

「こんな大学行ってたんだぜ?」

「こんな企業で働いてたんだぜ?」

 

だからなんなのだ。よるべき精神的支柱が過去の遺産、遺物になった時点でジャネーの法則よろしく死への自覚スピードは指数関数的に加速していくだろう。

 

人はかなり盲目的であり、立場が入れ替わっていることにも気づかず、相も変わらず他人の人生を笑いものにしてそれを酒の肴に漫然と暮らしている。芸能人のゴシップネタを必死でネットに貼りついて書き込みをしては溜飲を下げている人間はネット特有のものではなくよく観察すれば結構現実社会にも跋扈している。

 

挑戦者を笑うものは笑っていればいいだろう。しかし挑戦者の人生は笑ったものの人生よりも豊かだ。くだらない飲み会で毎度毎度同じネタで何の変哲もない毎日で視野狭窄するようであれば善きにしろ悪しきにしろ少しでも変化があった方が話のネタは豊富だ。そして広い世界観を持てるのではないかと思う。

 

しかし、こんなことを書いていても自分の言ってることもまた間違っているという可能性も否定できない辺り僕はかなりチキン野郎である。

 

 

 

 

 

プロレスというジャンル

毎年1月4日にはプロレスファンにはもう完全に根付いたイベントがある。新日本プロレスが開催する1.4東京ドーム大会、通称「イッテンヨン」である。初めて1.4興行が行われたのは1992年、もう25年前になる。

 

僕がプロレスに興味を持ち出したのは小学生の頃である。クラスの中でプロレスがブームになり出していた。とはいってもその頃はすでにプロレスはゴールデンタイムから撤退しており、当時のメジャー団体全日本プロレス、新日本プロレスともに深夜0時以降に放送されていた。小学生にはとても起きていられない時間であり毎週ビデオ録画をしていた。ちなみに今のように便利なハードディスクに取り込むような録画機能がなく完全に時間帯指定をしての録画であったため、当時のゴールデンタイムで放送されていたプロ野球中継が延長されてしまうとせっかく楽しみにしていた録画番組が完全にずれてしまい良いところで途切れてしまう、ひどい時にはまるまる別番組が録画されていたりすることがあり野球中継にはふざけるな、という思いを持っていた。なので野球に興味はなかったがプロレスの放送がある土日は野球中継が何時まであったのかを確認する必要があった。今みたいにネットなんてものもなかったので見過ごしてしまうと何時まで延長されたのかが不明であり(あとの番組のテロップで「野球延長のため○分遅れで放送しています」と出ることは出るが)、とりあえず120分テープを用意し、最大までとれる範囲の時間を設定して録画予約した。それほどプロレスには熱中した。

 

小学生のころは完全にバカなことをしていた時期であり、走り高跳びなどで使うセーフティマットの上でプロレスごっこもやったが一度学校の廊下でバックドロップを食らったことがある。木造校舎だったからよかったものの、コンクリートであったら冗談抜きで死んでいたかもしれない。「痛い!」というのももちろんあったが「息ができない!」という状況に陥った。受け身も知らず、不意にかけられたので頭から落ちて気道が詰まったのかなんなのか今となってはわからないが1分くらい呼吸ができず死ぬと思った。それでもその後のプロレスごっこは続き、跳び箱の上からムーンサルトや雪崩式フランケンシュタイナーをやっていたあたり死線をさまよったにもかかわらず何も学習しない猿であったと言える。

 

その後、中学に入ってもプロレスブームは僕個人としても世間的にも上昇していった。僕らの祖父世代だと馬場・猪木、父親世代だと長州・藤波・天龍・鶴田・タイガーマスクだが僕の世代は完全に四天王、三銃士世代だ。四天王プロレスのクオリティの高さと三銃士のストーリー性は思春期の僕の感性を大いに刺激した。地元は田舎であったためなかなか生で観戦することはできなかったが当時発足したみちのくプロレスはよく観戦した。

 

よくプロレスを否定する人に「八百長でしょ?」「最初から決まってるんでしょ?」という発言をする人がいる。「うん、だから何?」としか思えない。そんなことを言ってしまう人は手品やイリュージョン、メンタリズムと言った類も「どうせタネがあるんでしょ?」と得意げに言い放つのだろうか?そういうのをわかった上で楽しむ心がないのはまぁ息苦しい生き方をしているな、と思う。真剣勝負を前提とした総合格闘技やK-1などが衰退し、低迷期がありながらも現在も存在して再びブームを起こしているプロレスを考えた時に大衆は真剣勝負よりも面白いエンターテインメントを求めていると言える。真剣勝負などと言うのはつまり殺し合いだ。人が壊れる瞬間を見たいなどという人は病的なsadistであり、考え直した方が良いと思う。真剣勝負というのは端的にいうと街の喧嘩とほぼ同じだ。あんなものを金払って見る価値など無い。

 

そりゃあ僕も小さい頃はプロレスが真剣勝負だと思っていた。でも色々と暗黙のルールが存在することは理解してくるし、プロレス界禁断の書と言われるミスター高橋が出版した例の本でプロレスの舞台裏は白日のもとにさらされた。賛否両論ある著書であるが僕はあの本に関しては否定的な立場である。

 

しかし、それでもプロレスに対する魅力は未だにある。鍛え上げられた男たちが四角いリングで尋常では無い闘いを見せるだけでも非日常であり、間近で三沢光晴、小橋建太、武藤敬司、橋本真也を見たときはあまりのデカさに同じ人間とは思えず、存在自体で人を魅了し、金を稼げる素材、資質であると子どもながらに思った。街で見かける大きな外国人とは全く次元の違うデカさだった。

 

プロレスの魅力の一つとしていい意味での「曖昧さ」「いかがわしさ」があると僕は思う。もっと評価されていいジャンルであるがそこまでメジャーではなくもプロレスと言うジャンルは皆知っていてレスラーの時に「ん?」と思わせる言動もまた面白い。

スポーツであり格闘技でありエンターテイメントでありビジネスでありその全てを包含し、プロレスとは何か?と聞かれたらプロレスはプロレスだ、と言うのが一番近い答えだと僕は思う。

 

昔の長州、天龍、前田などの殺伐とした空気もありだが(長州など昔からは考えられないくらい丸くなった)今のようにバラエティ番組に出て親しみやすさを感じさせるプロレスラーもありだと思う。

 

つまり、プロレスの可能性は無限大であり単なる殴り合い、蹴り合いだと思ってる人はつべこべ言わず一度動画でも生観戦でもいいので見てもらいたいなあ。

 

うーん、全然プロレスの魅力を語りきれてない。また書こう。 

病的ナルシシズム

どいつもこいつも結婚していく。まあそちらの方が人間として正しいのだろうと言う感覚は僕の中にもある。

結婚自体は別にいいんである。人と人が惹かれあい、現行の日本の制度では結婚に行き着くことは至極自然な流れだ。そこをああだこうだ言う僕がおかしいという自覚は十分にある。僕が今回猛烈に言いたいことは「式・披露宴」と言うやつに関してである。

 

女性がこのブログを読んでいたとしたら予め言っておこう。今回のエントリーは猛烈にウエディング業界と女性の批判をする個人的偏見にまみれたエントリーである。女性は不快感を覚えること間違いなしであるため、シンデレラ症候群やお姫様願望のある方は読まないことをお勧めする。僕はここから猛毒を撒き散らす。

 

 よく女性は「ナルシストな男って気持ち悪い」と言う言葉を口にする。しかし僕に言わせればどの口がほざいてるんだか、という思いである。僕は男性のナルシシズムなどかわいいものであると思う。ちょっとイケメン気取って髪の毛セットしたりおしゃれをして「俺、決まってる!」などと思う程度である。しかし本当の意味でのナルシストなど本当に少数だ。男女がいるから男性は虚勢を張ってたくましさをアピールして女性を惹こうとする。世に女性がいない男性だけの世界であったら結構男性はなよなよしていると思う。逆に言えば自信がないから過度に男らしさなどといったものをアピールをしないと不安なのだ。自分に心底自信を持っている男性などまぁそんなにいないと肌感覚では思う。(個人的にアイドルやイケメン俳優が「かっこいいですねー!」と言われて「いやいや、もう全然っすよ」なんていうのは反吐が出るが。己はカッコいいという自覚があるからその職業選んだんじゃないのか?ふざけるな、である)

男性の自信はもちろん生まれ持ったルックスや才能もあるかもしれないが詰まる所「積み重ね」で培われたskillとしての自信であると思う。

 

しかし、しかしだ。女性のナルシシズムは男性(僕)視点から見ると病的であり強欲に思えるのである。中高生になるとメイクをやりだす。さらにマツエクだの黒コンだのネイルだの。補正ブラだか豊胸ブラだか知らんが胸も盛りに盛る。SNSなどにあげられている写真にはそれらのばっちりメイクをしてそこからさらにデジタル加工をする。

僕から言わせると武藤敬司がグレートムタに変身する以上の変貌ぶりである。

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やっててむなしくならんのだろうか?と常々思う。以前のエントリーでも述べたがときめきのピークを維持し続けることは不可能だ。すっぴんとメイクの違いがばれた時にどれだけマイナスになるかは考えないのか?正直に言って男性は女性の中身ももちろん見るが外見に惹かれる要素が半分以上を占めていると言って間違いはない。女性は男性の顔に加え身長、学歴、体型、年収、職業、社会的地位、そして中身とかなり色々なところで判断しているが、男性は女性のそれらにほぼ関心はない。相手の仕事だの年収だの学歴だのよりも見た目がありかどうかである。そして中身がそんなに問題なければほぼOKだろう。(個人的偏見にまみれているがこれを完全否定できる男性は小学生か結婚詐欺師であると僕は思う)

 

そもそもすっぴんは現代では化粧をしていないという意味で用いられているが本来は化粧をしなくても美人である人を意味している。

 

そしてSNSでは仮面のような鉄壁のメイクを施した自撮りをあげて「ブスすぎて悲しい(;_:)」という最初から期待した返しが決まっている発信をし「そんなことないよぅ。○○ちゃんかわいいよぉ!」というお決まりの返信に対して「え~、そんなことないよぅ!△△ちゃんの方がかわいいよぅ!」というバカみたいなやりとりを世界中に公開している。

清楚だとかしおらしいなんて大和撫子はもはや絶滅危惧種に指定されているのではないかと思う。そしてその最たること、今回最も言いたいことが「結婚式」というものに関してだ。

 

結婚自体は婚姻届を役所に提出すれば成立する。それで夫婦になれる。だが女性はその先に結婚式、結婚披露宴をやたらとやりたがる。何百万と言うお金を一日のために散財してまでも挙げたがる。僕は若い子と接する機会が多い人生であったため、結婚観と言うものを聞いてみるとやはりほとんどが

「盛大に挙げたい!」

「一生に一度なんだからもうこの世が終わってもいいくらいに豪勢にやってほしい!」

「自分が主役になれる人生の最大の機会なんですよ!」

「式挙げたくないという旦那さんとかだったら嫌だ」

こんなセリフだ。女性がこういうセリフを吐くことは理解できるが僕はなぜそんなに主役になりたがるのかは理解できない。一度でいいからウエディングドレスを着てみたい?うん、着たらいい。そして写真を撮ればいい。なぜ皆の前で見せる必要があんの?最低限両親に見せたいというのは理解できる。しかし友達や友達の友達、そんなに親しくもないちょっと関係がある程度の人にまでやれウエディングドレスだ文金高島田だ。目的がなんなのかよく分からない。どう取り繕っても結局自己顕示欲でしかないと思う。(あくまで僕は、の話で男性の総意ではない)そこが僕が女性に思う病的なナルシシズムの正体である。普段は控えめでつつましいと思っていた女性ですら結婚式を盛大にやりたいという言葉を聞くとつくづく女性はナルシスト要素が男性のそれにくらべると病的であると思わざるを得ない。

 

結婚式もピンキリであり、数十万で済む形式から何百万、ブルジョアクラスになると何千万(世に名前が知られてる人は何億と言った式をあげるらしいがそういう人たちは住む世界が違うのでどうぞ豪勢にお金を使って経済を潤してほしいので好きにやってください)と言ったレンジがある。だいたい数百万かける人が多いようだが。

 

だが、冷静に考えてほしい。結婚式や指輪などの金額が愛情の大きさとか言う寝言をほざくのもいいがその何百万と言うお金をその後の結婚生活、たとえば家やマンション、子どもができた時の養育費にあてたほうが良いと言う考えは全く浮かばないのか?無理をして何百万と言うお金をたった一日、己の虚栄心を満足させるためだけに使い結婚後に「ああ、お金がない。結婚生活って大変!子育てにはお金がかかる!」などと言っている豪勢な式を挙げた主婦などを見ていると「頭大丈夫か?」と本気で思う僕がいる。

 

そしてもう一点合点がいかない点がある。それは女性側の「式をあげて”欲しい”」という受け身の姿勢だ。結局ほとんどのケースが男性が全額式の費用を捻出することになる。(女性の家がお金持ちで出してもらったというケースも何人か知っているのであくまで割合の話)己が希望していることなら己で費用を捻出せよ、と僕は思うんである。一昔前のようにお見合い形式や「男は外で働き、女は家を守るべき」という社会であればまぁ納得できないこともないが、これだけ男女平等、女性が輝く社会!などと言われているにも関わらずなぜ「~して”欲しい”」と言えてしまうのか?「そこはやっぱり男の役割じゃないですか~」「え~、そういう甲斐性がない男の人ってやだ~(嫌で大いに結構だが)」都合のいい男女平等を持ち続ける限り女性の社会進出など絵に描いた餅どころか絵にも描かれていない空想の話である。

 

結論:こんなことばかり言っているから僕は結婚できないんである。

 

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こういうのが純愛って言えるんじゃないかなぁ。ウェディング業界に洗脳され幸せの本質がズレるよりは当人同士にとって一番いい形になればいい話である、とリンクを貼り付けて今日は寝る

私的食事論

極論を言ってしまうと僕は食事に関心がない。美味しいものを食べられたら確かにhappyであり、結構好みの味のお店に当たるとバカみたいに食べまくるので驚かれることもある(見た目が細いから余計に「そんなに食べるの?!」と言われることはよくある)がそこまで重きを置いていない。予定のない休日など水分だけとって1日何も食べないで終わることはざらにある。腹はぐーぐー鳴っているが「腹減った。このままでは死んでしまう。何か食べたい」とそこまでに至らないんである。腹の音が「うるせえなあ」と思うことすらある。仙豆があれば僕はそれで毎日きっと満足できると思う。

だから僕は痩せられない、と言う感覚が理解できない。僕は逆で太れない。食べればいい話なんだが食べても食べなくてもどっちでもいいし、エンゲル係数高めるほどの贅沢はできないのが現状。2日くらいなら水分だけで過ごすこともあり得るので放っておくとドンドン痩せてしまい「やべえやべえ、なんか食っておこう」と意識的にご飯を食べている。腹が減ってるからではなく痩せていくから食べる、と言う感じだ。特に一人暮らしの独身者だから自動的に食事が出て来るわけではないので余計にそこは意識している。

 

外食で初めてのお店でいきなり大盛りを頼む人もあまり理解できない。「味にはこだわらない」という人なら別にいいんだが、もし不味い、自分の口に合わないお店だったらどうするのだろうか?と思う。美味い飯なら無尽蔵に食えるが不味い飯を大量に食わなければならないことは拷問でしかない。

 

だから僕は外食をする時は食事の量は結構差が出る。味覚の合う人から勧められたお店、あるいは最初に頼んだ料理が美味しいお店はあらゆるメニューを片っ端から注文する。しかし、最初に頼んだ料理、あるいは最初の一口が「…ん?」という感じであるとほとんどその後オーダーしない。前述したように別に食べても食べなくてもどっちでもいい人間なので不味いと思ったらわざわざ金払ってまでオーダーしようなどという気は失せてしまうのである。

 

よく食べないでいると胃袋が小さくなっていき食が細くなる、みたいな話を聞くがそれは僕には当てはまらない。食べないでいる期間があっても美味しいものであればいくらでも食べられる。要は美味いか不味いかだけなのである。僕の場合は。そして別に大食いでも少食でもどちらでもないと思っている。食べ物の好き嫌いもほぼないので本当に作る人の味付けがどうかという問題だけだ。しかも完全に味覚は個人差なので食べログとかミシュランとかマスコミで話題の!なんてのは参考程度でほとんど気にしない。ミシュランが星をつけても判断するのは個々人であり、ミシュランが認めたから美味しい、などという判断は自己判断を放棄しており、事実上判断能力を失った、危機察知能力を喪失した危うい人間であると言える。

 

キツイのは目上の人、立場的に上の人で「このお店美味いんだよ!」と意気揚々にお店に連れていかれそれがあまり美味しくなかった場合である。連れて行ってもらえるのは心から嬉しいのだが、不味いと感じたものはその後頑張って美味くなる訳ではない。シェフ、厨房が変わらなければどうにもならない問題だ。「どう?!どう?!美味しいでしょ!?」と言われてもそこで「いや、不味いです」なんて答えはできないことくらいわかりそうだと思うんだが。なので今でも目上の人、初対面の人や気を使う人との食事は好きではない。一人飯の方がよっぽど気楽である。

だから僕は気に入ったお店を人に紹介することはあっても相手に「美味しいでしょ?!」などと迫ることは一切しない。「僕はこの店の味が好き」というくらいでぶっちゃけたところ相手が「いや、イマイチ」と言ったところで怒りもしなければ不快になることもない。「そうなんだね〜」と思ってお終いである。そう言ってくれた方が相手の本当の好みの味を知れてその方が僕はその人と今後の店のリサーチを検討するいい機会になりありがたいとすら思う。

 

そして、更に僕が最もうんざりするのは女性の手料理だ。しかもヘタに料理が得意と自信を持っている女性の手料理だ。美味しければもちろん良いのである。しかし料理が得意と言っても結局味覚がその人に合うかどうかは料理が得意かどうかとは関係がない。そして不味かった時の対処はどうにもならない。差し出された相手は料理の評価に対して「美味しいよ」の一択しか選択肢は無く、どんなに不味くても「美味しい」と言いながら完食しなければならない。

これは本当にバカらしい。ちょっと女性陣は考えて欲しいのである。男性が無理に「美味しいよ」と言ったとする。無理してである。女性は真に受けて「私やっぱり料理上手!」「この人はこういうのが好みなんだ!」などと勘違いを起こしその後も手料理なり差し入れなりを振舞うことになったら悲劇でしかない。

それが付き合ってる男女であってみろ。男性は最初は気を使って勘違いした優しさで不味いものを「美味しいよ」などと言ってもどこかで必ず「実は美味くない」という日が来る。結婚を考えたら不味い飯を毎日食わされるなど地獄なんである。

だから女性の言う「酷い!一生懸命作ったのに!」「男だったら文句言わずにありがたく食べなさいよ!」「じゃあもう作らない!」と言うセリフは理解に苦しむ。子どものワガママにしか聞こえない。

別に女性の人格や行為を罵ってるわけではない。作ってもらったことには男性は皆感謝はしている。ただ料理の感想を言ってるだけなのだ。では女性陣に聞くが「好きな人からもらうプレゼントは何でも嬉しい」などと言う人がよくいるが趣味に合わないものをプレゼントされ続けてあなたは嬉しいのか?いつかどこかで「もうこれ限界」と言う日が来ないと言えるのか?

 

結局のところ勉強や運動と違って感覚の問題であるから味覚は芸術に近いと思う。勉強や運動は努力をすれば面白みが徐々に分かってくることは往往にしてある。自分のやり方を変えれば好きになる可能性も十分ある。

しかし、味覚や芸術はその可能性が勉強などのそれに比べると格段に低い。自分が頑張って不味い飯が美味しくなることなんてあるのか?理解出来ない名画を見せられて頑張れば感動できるようになるのか?作り手のセンスと受け取り側のセンスにかかっている問題である。

 

つまり、ゴッホより普通にラッセンが好きでもピカソより普通にラッセンが好きでも何もおかしなことではないのだ。

 

あとは時間の問題だ。昔嫌いだった食べ物が年を取った時にある日食べてみたら食べられるようになった、昔つまらないと思っていた芸術作品に今になって感銘を覚えた 、と言うことはある。味覚は変化し、感性も人生経験とともに変わるからである。だから努力の問題ではない。10年後にでもまたトライしてみればいいのである。